金城夏子 ~密貿易のボス~

おはようございます!こんにちは!こんばんは!
アイエー住宅販売です!!
今月から台風が増えてきてますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
沖縄の人達は台風慣れしていて被害もそんなに無いですが、本土の方は慣れてないのと、被害が大きいと聞いています。本土の方は、万全な台風対策と、しっかり台風情報聞いて状況を把握することを心がけてください!!
話は変わり、最近ひさしぶりにおばあちゃんの家に遊びに行ったときに「ナツコ」という本を見つけました。

糸満市では凄く有名な方で、僕のおばあちゃんも知っている方でした。タイトルに密貿易と書かれていて恐そうな方ですが、戦後の沖縄を支えた重要人物だと僕は思っています。
今回は、その「ナツコ」という人物について書いていこうと思います。

プロフィール

金城 夏子(きんじょう なつこ、1916年(戸籍上は1915年6月20日) – 1954年8月8日)は沖縄出身の日本の企業家で、終戦時は台湾に住み、その後は沖縄県に帰ったが、戦後の混乱期に違法貿易を営み、沖縄密貿易の女王と称されたそうです。

夏子の性格

1951年ごろ沖縄の本部(もとぶ)で、夏子がある組織の中にいるのを見た人が、次の様に語ったといいます。「威厳というか、近づきがたい存在感があった。惚れ惚れとするほど堂々としているのです。この人がボスかと思いました。相撲取りをしていた位の大きな体の人を、子供のような小さいからだの夏子さんがあれこれ指図しているのです。夏子というのはたいへんな子だなあ。あの子が命令すれば誰も逆らわない。いるだけで十人がまとまる。すごい子だよ。」

結婚まで

当時の沖縄の慣習で、戸籍は正確ではないが、戸籍では1915年6月20日沖縄県島尻郡糸満町に出生とあります。しかし、従姉にあたる新城秋子は、夏子は1916年鹿児島県徳之島生まれとし、夏子自身も1916年と言っていたそうです。父は宮城亀。母は宮城ジルで、母は夏子出産後亡くなりました。家族の職業は主に漁業。1931年、小学校卒業後一家は糸満に移ったのですが、夏子は徳之島に残ったそうです。18歳の時、兄や姉を頼ってフィリピンのマニラに渡りました。1938年海関係の仕事をしている石垣島の金城常次郎と石垣島で写真見合いで当日結婚をして、直ちにマニラに帰ったそうです。

マニラから沖縄、台湾にて

1940年当時、フィリピンには19,288人の日本人がいました。フィリピンでは、マニラの市場で魚を売っていたそうです。1939年、長女を出生。糸満出身の女性たちを組織して、ボスに収まっていました。1940年、二女を出生。株を売買してお金をためたそうです。糸満の実家に身をよせた時は、昼は魚の行商、夜はミシン掛けと多忙であったのですが、片言の英語をしゃべるのをきいて実家はビックリしたと言います。また、夏子は日本がアメリカと戦争すると負けると言っていたそうです。そのせいか、夏子に尾行がつきました。その後石垣島に移住し、1944年10月台湾に移動しました。八重山からは鰹節を大量に持っていったそうです。そして、台湾の嘉義市に移動しました。その後、1945年12月に石垣島へ移動したそうです。

戦後の密貿易

1946年の末、石垣島に係留されている18トンの船を買い開幸丸1号としました。最初は海人草を素潜りで採っていたそうです。香港から南東300キロの東沙諸島・プラタス島が最良であり、同島にいた台湾の海軍の許可をもらい折半したそうです。本土においてそれを売り、莫大な利益を得ました。違法操業であったため、1947年国府軍から銃撃を受けたそうです。開幸丸2号は新造船で100馬力の高速船を購入し、9月糸満で逮捕されました。
1948年春、石垣島登野城に家を建てたそうです。同所に精米所も作りました。1951年4月に夏子は逮捕されたそうです。理由ははっきりしないのですが、作家奥野修司は軍需物資の輸送か、政治犯の輸送ではないかと推定しています。しかし、裁判では無罪だったそうです。夏子は留置場を出てすぐ、幸陽商事を立ちあげます。この会社は沖縄では小麦の扱い高は最高だったそうです。
1950年から1952年には、密貿船の記事によると、沖縄から薬きょう、銅線などを運び、これを香港で、食料品(白砂糖、コメ、メリケン粉、飴玉、菓子、ミルク)、日用雑貨(石鹸、電球、洋服生地、ジャンパー、子供シャツ、ローソク)、医薬品(ストレプトマイシンやペニシリンなどの抗生物質)と交換していたそうです。1950年11月、政府管理貿易に変わって民間貿易が再開され、密貿易はなくなっていきました。
1953年9月、夏子は東京大学医学部付属病院に入院。頭部に癌ができていたそうです。チャーター機で沖縄へ帰った直後の1954年8月8日に死去されました。

沖縄の密貿易

沖縄では1946年4月の通貨経済再開から、本土との民間貿易が自由に行われるようになった1950年ごろまで密貿易が行なわれていたそうです。初期の密貿易は小規模のものでしたが、与那国島などを中継点とする台湾ルート、香港ルート、奄美・鹿児島・宮崎・本土を結ぶ本土ルートがあったそうです。一般的には密貿易と言いますが、米軍にとっては、衣食住が決定的に欠乏している沖縄の現状下において生活必需品の流入は好都合であり、取り締まりを強めることもなかったそうです。密貿易が盛んだった時代は、与那国島は人口2万人を超えていたのですが、現在はその1/10以下だそうです。

感想

僕のおばぁちゃんから聞いた話で、戦前~戦後はすごく貧しくてみんなハングリー精神を持っていて一生懸命に生きていたそうです。
金城夏子もその一人で、警察に何回かお世話になったそうですが、自分の為家族の為に働いていることは素晴らしいと思います。
決して犯罪を美化するわけはないのですが、それぐらい僕も必死に生きていこうとこの本を読んで改めて思いました。